神父様からのメッセージ

知恵ある心を求めて

 私たちは価値あるものを求めております。しかしものの評価を間違えることもあり得ます。そういうこともあったかも知れません。その時は悔しかったでしょうが、勉強になったので、二度とそういうことのないようにもっと気をつけるようになると思います。

 ところが、聖書でいう「知恵ある心」を持たなければ、一番大事な選択を間違えたまま生涯を終わることになります。そこで、「知恵ある心」とはどういう心でしょうか。その心を祈りながら、それを教えてくれる御言葉にききましょう。

 「生涯の日を正しく数えるように教えてください。知恵ある心を得ることができますように」と。(詩篇,90-12)

 「教えてください、主よ、私の行く末を。私の生涯はどれほどのものか、いかに私がはかない者か、悟るように。ご覧ください、与えられたこの生涯はわずか、手の幅ほどのもの。御前には、この人生も無に等しいのです。ああ、人は確かに立っているようでも全て虚しいもの。ああ、人はただ影のように移ろうもの。ああ、ひとは虚しくあくせくし、誰の手に渡るとも知らずに積み上げる」と。(詩篇39,5-7)

 「人生の年月は70ほどのものです。健やかな人が80年数えても、得るところは労苦と災いにすぎません。瞬く間に時は過ぎ、私たちは飛び去ります」と。(詩篇90,10)

 なお、知恵ある心を願っている私たちに、短く、儚いこの生涯をどのような心構えで過ごすべきかを、イエス様にうかがいましょう。

 「人は、例え全世界を手に入れても、自分の命(神様とのつながりの意味)を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか」と。(マタイ16,26)

 「ただ、神の国を求めなさい・・・小さな群れよ、恐れるな。あなた方の父は喜んで神の国を下さる。自分の持ち物を払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない」と。(ルカ12,31-33)

 やはり、この地上で永住する身ではないことを自覚しながら日々を過ごし、神様のお心にかなった生き方をすることに知恵があるのです。

 ちなみに、古代ギリシャの著名思想家ソクラテスの言葉もききたいです。「知恵者は死を見つめている・・・死を見つめるようになった人は知恵者となる」と。人間は裸で生まれ、裸になってこの世を去っていきます。その時、富も、地位も、名声も、学識も、その全ては何の役にも立ちません。その時天に残るものは天に積み上げた「尽きることのない富」だけです。

 「人生の夕べに愛について問われるでしょう」と。(十字架の聖ヨハネ)